現代日本の開化 夏目漱石

  • 2011.12.04 Sunday
  • 03:46


今日は夏目漱石の『現代日本の開化』を紹介します。
さいきんめっきり肌寒くなってきて、真冬の様相を呈して来ましたが、いかがお過ごしでしょうか。


これは夏目漱石が真夏に行った講演会の記録です。
漱石がこの講演を行った頃は、西洋文明が日本にどんどんと流れ込んでいた時代です。2011年と同じく、時代の節目だったわけです。漱石はその先頭にたって英語や英国文学などを多くの学生に教えています。西洋文化を取り入れる時に、いったい何に注意していればよいか。そういうことを熱心に考えていたのが漱石です。


文化や情報が一気に入ってくるということは、役に立つと同時に、害そのものでもある、と漱石は述べます。ちょうど、インターネットを盛んに使い始めた時代にも似ているかもしれません。文明の開化は、人間活力の発現の経路である、と漱石は言います。


漱石が現代に生きていたら、十年くらい前にwikipediaの到来やフランスでのブログ文化などを熱心に語ったかもしれませんね。ネット環境はものごとを手軽にするかわりに、人を横着にさせる。漱石は文明の進化によって、できるだけ義務を楽にしたいという横着な技術が発展すると予言していますが、まさに21世紀はロボットが自動車のように現実社会にあふれかえることになりますから、鋭い指摘です。


漱石は文明が進化するほど、歩くのも省略したいし自転車や自動車や飛行機などが発達していって、とにかく義務を楽にして、道楽ばかりに集中したい、という人々が増えると予想しています。日本の未来をかなり的確に言い当てていますね。自動車産業とゲーム産業はほとんど世界一、というのが日本ですから。義務を軽減して、道楽に集中したいという日本人の性質を完璧に見抜いています。きっと今後の日本ロボット産業もどんどんこの方針に近づいてしまうんじゃないでしょうか。


漱石はこの発展に対して、強い疑問を投げかけます。自動車産業の偉大な発展が本当に私たちの暮らしぶりを安定させたのか。いや、むしろ不安や不和を増やす結果となってしまった。打ち明けるなら、文明が発達しているのに苦しい境遇に見舞われる人はむしろ増えてしまった。文明の進化は生存の苦痛を和らげない。むしろ増大させている。生存競争から生ずる不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。ここで漱石は、老子のように、心理的苦痛の増大へと突き進まない方針を説きます。漱石は、日本の開花が、外発的であると指摘しています。これも日本の現代社会とぴったりと一致しているように思います。




こちらのリンクから全文お読みいただけます。
http://akarinohon.com/center/gendainihonno_kaika.html  (約60頁 / ロード時間約30秒)

庭の追憶 寺田寅彦

  • 2011.11.22 Tuesday
  • 15:18


今日は寺田寅彦の『庭の追憶』を紹介します。
紅葉の雰囲気が漂う随筆を探してみて、これに突き当たりました。
これはなんだか不思議な瞬間をとらえています。


ぼくは、昔住んでいた町を通り過ぎるときにみょうに不思議な気分になります。
ここは「自宅の近くだ」という気分と「ここは自宅から遠い」という気分がなんだかまぜこぜになった気分に包まれるのです。なんか「あれっ?」という瞬間って人によっていろいろありますよね。何に役立つのかは判りませんが、なにか創作している人にはそういう「あれっ」という瞬間が役だったりするんでしょうか。


他に「あれっ?」という瞬間を紹介すると、僕はさいきん大学生のちょっとした日記をなんとなく読んでいたりするときに、この「あれっ?」という感覚に突き当たります。ちょうど僕も大学時代にまったく同じことを考えていたなあ、ということを感じるんです。でも10年以上たって今はそれと異なる考え方になったし、たぶんこの学生さんも5年くらいたつとかなり違う発想を持つはずだ、というようなことを思うときに「あれっ?」と思うんです。


どういうように「あれっ?」と思うかというと、僕が誰かを見つめているときに、僕も誰かに同じように見られているように思う、という奇妙な感覚です。


たとえば学生時代ってよっぽど面白いことをしている人でもないかぎり、学生のその先がどんな日常になるか、あんまり想像しませんよね。ちょうど小学生が大学生の日常を想像しないのと同じで。でもそれは実際に5年後になると判ってくるし、今知る必要なんて無い。小学生時代に「大学3回生に進級したら単位はどうしようかな」ということを悩んでいても、それはまったくちんぷんかんぷんな悩みなわけで、つまりかなり先のことは「なるようになる」とか「うまくゆくはずだ」というふうに適切な道のりを想定しておいて、今することを改善してゆくしかない。


そういうことを思っているときに、「あれっ?」と思うんです。つまり、僕が行き詰まっているように感じている「僕の日常」の先を、ある程度正確に予測できる人がたぶんいるはずだ、という予感が、なんだか不思議な気分で想像できるのです。


僕は僕の日常をどう変化させてゆくか、ちょっといま具体的によく判らないのですが、経験豊富な人にとっては、僕の未来はそれなりに見えているんじゃないのか、と想像するときに「あれっ?」と思うのです。僕自身には見えないのに、だいたい予測できる人が居るはずだということだけは想像できてしまう。それは奇妙だな、という感覚です。自分の視野が、自分がゆけるはずの距離よりも遠くに行ってしまっている瞬間があるのでした。


もう少し、具体的にこの「あれっ?」という感覚を説明してみると、さいきん聞いた仏教の法話のなかに、こういう不思議な話がありました。


男と従者は長旅をしていた。
男らは川沿いをずっと歩いて、川上にある村にたどり着かねばならない。
しかし、今歩いている道は、だんだんと崖が険しくなってきて、はるか彼方には岩壁が聳えている。このままでは旅を続けられない。
男らは対岸を見つめた。向こう岸にはなだらかな草原が広がっている。
男らはより一層けわしくなる此方側の道をあきらめねばならない時がついにやってきたことを悟った。しかし川は深く流れはけわしい。男は従者に命じ、木木と葉を寄せ集めさせて、がんじょうなイカダを組ませた。このイカダのおかげで、男らはぶじに川を渡り終えることが出来た。ここから先はなだらかな草原を越えてゆくだけでよい。しかし男は、川を渡り終えたことに歓喜し、このイカダにいたく感謝するあまり、イカダを背にかついで草原を歩きはじめようとしてしまった。
そこで従者はなにを言うべきか。
「そのイカダはもはや不要です」
このように告げるべきである。
危機を乗り越えたのち、もはや使わなくなった道具とはお別れをして、共に新たな道を歩まねばならない。


こんな話でした。それで僕は「あれっ?」というのから「ああなるほど」という感覚にいたりました。プラトンの本にもこれに似た話が書いてあったし、ウィトゲンシュタインという哲学者も似たことを書いていて、あれも親切心でそう告げたんだろうなあと。


つまり、ずいぶんな長旅をした人は、そのあとから歩いてくる人へ向けて、なにかを書き残すことがこれまでも良くあって、私にとってはまるで体験したことのない謎であっても、人によってはすでに来た道であったのだ、と納得したのでした。

 

http://akarinohon.com/center/niwano_tsuioku.html (約20頁 / ロード時間約30秒)


日光の紅葉 正岡子規

  • 2011.11.21 Monday
  • 11:57
 

今日は正岡子規の『日光の紅葉』を紹介します。
紅葉の季節なので、ちょっといくつか秋らしい俳句や随筆を紹介してゆきたいと思います。
子規はいろいろな知識人たちと親好を深め、豊かな人脈を持っていた俳人です。


正岡子規は森 鴎外、中村 不折、河東 銓、久松定謨、秋山好古、秋山真之、夏目 漱石、尾崎 紅葉、高浜 虚子、伊藤左千夫、長塚節、岡麓など、数多くの人々と付き合っています。


子規が亡くなったのちも、子規の活動拠点であった俳句雑誌「ほととぎす」が不滅であったのは、ひとえにこの数々の出会いによるものだったようです。はじめはそんなに発行部数の多い雑誌ではなかったのですが、子規の弟子であった高浜虚子がその雑誌を引き継ぎ、漱石の処女作「吾輩は猫である」が掲載されてから、東京で飛ぶように売れるようになった。


子規は万葉集を強く推薦しています。そして形式にとらわれて内容を失ったものを否定し、なんというか人づきあいにおいても創作においても、多様性ということをかなり重視していたように思います。子規は読めもしないドイツ語の哲学書を読み込もうと頑張ったり、漢詩にそうとう詳しくて漢詩の創作とかもけっこう熱心にやったそうです。多才ですね。






 

草紅葉 永井荷風

  • 2011.11.17 Thursday
  • 15:53


今日は永井荷風の『草紅葉』を紹介します。
これは、永井荷風が戦中戦後のことを思い出して書いた、ごく短い日記のようなものです。永井荷風と言えば断腸亭日乗という日記が有名で、これを42年間書き続けています。
それから『ふらんす物語』と『あめりか物語』が有名で、海外で様々な文化を吸収して日本に帰ってきた作家です。


フランスの文化にすっかり溶け込んで、その美しさを実感し、フランス語でものを考えるようになっていた永井荷風なのですが、その永井荷風がフランスから日本へ帰る途中、哲学上の恐慌状態におちいったことについて書き記した『悪寒』という短編があります。嫌悪感をきっかけとして、批判的立場で自分らの環境を眺めてゆく契機を見出すようになった、そうなのです。くわしくは永井荷風の『ふらんす物語』 をお読みください。


永井荷風は帰国後、結婚しないまま若い娼婦と恋愛をするということを続けていて、何人もの女と付き合って、美食と言うことにものすごいこだわりがあって、当時の「産めよ殖やせよ」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という国民の風潮と真逆の生活を繰り広げています。全国民の総意と、ぜんぜんちがうことをやる、しかも一人で、というのが迫力あるなあと思います。






『正岡子規』 夏目漱石

  • 2011.11.14 Monday
  • 23:13


今日は夏目漱石が書き残した『正岡子規』という短いエッセーを紹介します。下の方に掲載した写真は数年前、松山に行ったときに撮った愚陀佛庵(ぐだぶつあん)です。愚駄仏庵は漱石の住処で、ここにほんの短いあいだ、正岡子規と夏目漱石が一緒に住んでいました。2階が漱石の住処で、1階に子規が居て、子規の俳句仲間がよく集まっていました。森鴎外や高浜虚子などもここを訪れました。




漱石に文学者になるように勧めたのは米山保三郎という学生時代の親友ですが、文学の魅力や文学の実際を伝えたのは正岡子規です。正岡子規は俳句や小説を創作し、文学雑誌「ほととぎす」の発行などを精力的に行っており、漱石はこれに感化されて文学へとどんどんと近づいていきました。小説家になる前の漱石ってどんな人かというと、英語の先生なんです。日本一英語に詳しいと言うくらい英語を猛勉強したのが夏目漱石です。




漱石は英語をかなり完璧にマスターしていて、さらに漢詩も書けるという語学のエリートです。ところが、若い頃の漱石は英語の勉強ばかりやっているのがどうも好きではなかったようです。漢詩を作るのが好きで、漢文で旅行記とかも書いています。この漱石の書いた漢文を正岡子規が読んで感心して、二人は仲良くなったのです。




漱石は政府の指示で英国留学をするんですが、その時も「英語の研究をしてこい」と言う指示を受けたんですが、正岡子規との長年の付き合いから、やはり「英語」を研究するよりも「英文学」を研究したいと思い、政府にそのように願い出て、文学を研究するために留学することにします。漱石がイギリスの大学に行った時、英国文学の概要というか基礎知識のような講義しか受けることが出来ず、漱石はこれでは英文学がいったいどういうものかさっぱり判らないと思い、イギリスの下宿に閉じこもり、自分で独学することにしました。




結局、長年活躍する人というのは、どうも独学という部分でかなり熱心にやって居るなあと思います。たとえば現代哲学者で有名な方も、もともとは大学で哲学を専攻していなかった人で、ある日図書館で一冊の哲学書を手にして、これはなんて魅力的な本なんだと感心し、それを熱心に読み始めた。哲学を学んだのはほとんど独学によるものだった、と回想録に書いています。それから脚本家の新藤兼人監督は、永井荷風の「墨東綺譚」を映画化するにあたり、荷風の日記である断腸亭日乗を隅々まで6回読んでストーリーを練り込んでいったと述べています。繰り返し繰り返し読んで、内容を消化してゆく。独学の意欲がすっごい大切なんだなと感じました。




他にも若手の思想家が、大学で学生達に現代思想を教えながらこんなことを言っていました。「大学で哲学を教える事なんて不可能で、哲学というのは自分でやりたい奴しか学べない」そうなのです。他にも「学校の哲学科で教えているのは、哲学の歴史と体系を教える、哲学学や哲学の歴史の教育であって、哲学する方法はほとんどまったく教えられないんだ」と書いている哲学者も居ます。哲学者も創作家も、独学をしてそれを職業にしているように思います。




漱石は漱石で、小説の書き方を学校で教わったことはないんです。教わったのは英語。英語をやっているうちに、新しい日本の小説というのはどういうもんだろうかと考えはじめた。しいて言うと、人づきあいを通して少しずつ小説の世界に近づいていったという感じだと思います。



道楽と職業 夏目漱石

  • 2011.11.03 Thursday
  • 20:05


今日は夏目漱石の『道楽と職業』という講演録を紹介します。夏目漱石には、代表的な講演録が3つほどあります。『私の個人主義』と『現代日本の開化』と『道楽と職業』です。夏目漱石が学生さんや一般の方々にちょっとした授業をしたような雰囲気の講演録です。これからこの3つの講演を1つづつ紹介してゆく予定です。




夏目漱石の小説をまずはじめに楽しみたいのなら『坊っちゃん』や『三四郎』がお薦めです。『草枕』なども明かりの本で読めますよ。『道楽と職業』は1911年の明治四十四年に行われた講演の記録です。明治四十四年というと、文明開化を遂げてナショナリズムが高揚し戦争へと向かってゆく時代です。「満州」というのが三十五年後にどのように捉えられるか判らない時代のことです。三十五年後の未来が、誰にも判らなかったんですが、漱石はそういった未来を見据えて、各個人がどういうことを尊重して生きてゆくべきかを指南しています。




帝国主義へと向かってゆく時代には、夏目漱石の親友である正岡子規も志願して従軍記者となり満州へ赴いたりしていますし、森鴎外も軍国主義です。多くの文化人が、イギリスの植民地主義を真似て強国を目指していました。私たちは1945年のことを纔かに知っていますが、2045年のことはほとんど全く想像できないですよね。ですが、漱石は35年後のおおよその世界を想像できていたのではないかと思います。漱石が現代に生きていたら、現代社会をどう読み解き、私たちに何を教えるだろうか、ということを想像しながら読んでゆくと、いろいろと思索できるのではないでしょうか。漱石の思想は、時代を超えて私たちに学問と日常の大切さを伝えているように思います。




僕は「仕事がない」と思っている人間ですが、同じように「仕事がないかも」と思っている学生さんには具体的に楽しめる話だと思います。漱石は『素晴らしい大組織』の話しをするよりも、私たちのじつに身近な話のほうにこそ哲学性や学問性が含まれていると諮詢しています。実際にこの講演録を読んでゆくと、授業と言うよりもなんだか落語を聞いたような気分になりますね。





http://akarinohon.com/center/dorakutoshokugyou.html (約60頁)

戦争責任者の問題 伊丹万作

  • 2011.10.18 Tuesday
  • 16:25


今日は伊丹万作の『戦争責任者の問題』を紹介します。
これはいままさに読んでおくべき評論文ではないかと思います。基本的な考え方をはっきりと記してあるので、どのような思想を持つ人であっても読むと納得のゆくところがあるのではないかと思います。




要点を少し説明しておきます。
伊丹万作氏は戦後、積極的に戦争へと向かわせたメディアの担い手として「犯人扱い」を受けたと述べることからこの評論文を書きはじめます。当然戦争犯罪の責任者では無いのですが、伊丹万作氏は「私が人々をだました映画制作者であるとして」というところから思索をはじめています。




「戦争の期間を通じて、誰が一番直接に、連続的に我々を圧迫しつづけたか」と言うと、日常生活の中に居る身近な人同士が、お互いに苦しめあわなければならなくなっていたと伊丹万作氏は述べています。




特定できるはずのない犯人を特定するのではなく、しかしその大きな問題の「原因」は皆でしっかりと論じあう。これが再び狂気へと向かわないためにも大切である、と伊丹万作氏は述べています。そして責任ということについてならほとんど万人に責任があるはずで、自分は直接には戦争を引き起こしてはいないからといってその責任がないとは言えない、と述べています。倫理上の罪は裁けないわけですし、悪人を特定して自身の責任を逃れることは出来ない、ということなのだと思います。罪を憎んで人を憎まず、という当たり前のことがまず何よりも大切であるかと思います。




重要なことは、未来に同じ過ちを起こさないということです。それには学ぶよりほかない、と伊丹万作氏は述べています。私たちが知らない困難な時代について、私たちがそれを少しずつ学んでゆくということは、私たち自身の未来に聳える壁をより明確に捉え、それを克服してゆく手助けとなるのではないでしょうか。



 


津浪と人間 寺田寅彦

  • 2011.10.12 Wednesday
  • 05:54


今日は寺田寅彦の評論文『津浪と人間』を紹介します。
いま、小中学校では放射線の教育をはじめたそうですが、それはなにか順序が逆じゃないかと思います。まずはじめに、地震や津波の教育からやるべきじゃないかと。それで次に、科学的に何が起きているかよりも、社会にとって放射線とはどういうものかということを教えるべきだと思います。人間同士の接触ではうつらないということや、大気や土壌や食糧が汚染されていて農村の避難や保証がもっとも重要な問題であると言うような、科学者が見落としがちなことを教えるべきであって、放射線の仕組みを教えても何も見えてこないですよ。




それに放射線のことをもっと知るべきなのは親御さんや各専門分野の、第一線で働いている人々であって、子どもがまず知るべきは自然がどれだけ人間を上まわるかということと、環境を汚染した時にその被害が人間に直接降りかかってくると言うことと、水俣病が起こり始めた頃は数値ではその危険性を察知することが難しかったと云うことですよ。あの時も政府側の科学者は「このような濃度の水銀汚染では人体に悪影響は出ない」というようなデタラメな発表を平気で行ったんですよ。科学の思考法で子どもに教育するんじゃなくて、倫理学者の考え方こそが重要なはずです。




まったくの素人が言っても仕方のないことですが、科学者が子どもに教えるよりも、科学者がもっと地震学や倫理学や近現代史を学び直すべきなんじゃないでしょうか。たとえば原子力発電所が乱立する福井県では、1948年に大地震が起きて居るんですが、これが二度と起きないという保証はどこにもないですよね。世界の原子力業界から見れば地震の震源に原子力発電所を設置するのはあまりにも非常識なのだそうです。そう言う問題について原子力業界とは異なる他分野の、権威ある科学者がまず中心になって自発的な会合を開かないと駄目なんじゃないですかね。文学者が文学者を啓蒙すると言う実例はかなり多いです。しかし科学者が科学者を啓蒙するということが日本では今まであまりにも少なかったように思います。大学の学者同士の会合で、BSE問題をテーマに議論していたことがあったそうです。いろんな学者が意見を述べた。科学者が中心になってBSEとはどういうものかを発表していくことからはじまったそうです。それで民族学者が最後に「そもそも畜産の歴史をしっかり理解していれば、死んだ牛の骨を牛に食べさせることがタブーであることが、誰にでも理解できるはずだ」と述べて多くの学者がその意見に納得したそうです。そこでは他分野の学者が多くの学者を啓蒙しています。




シビリアンコントロールという言語がありますが、これからの社会はサイエンティストを市民や政府がしっかりと見張らなければならない時代になったように思います。阪神淡路大震災の時代に日本でサリンが作られてしまったのも、若きサイエンティストが倫理学を学ぶ機会を失っていたからです。倫理というものは幼い頃に一度学べばもう良いというようなものではなく、体操をしないままで居ると体が錆びつくのと同じで、常日頃から必要とされている学問だと思います。




変化が激しい時期には、新しいことを言いたがる人の主張を信じず、古典に学ぶべきだと感じます。






http://akarinohon.com/basic/tsunamito_ningen.html  (ページ数 約15枚)



高浜虚子著『鶏頭』序 夏目漱石

  • 2011.08.29 Monday
  • 17:59
今日は夏目漱石が高浜虚子の小説の序文を書いた、余裕派に関する短い評論文を紹介します。僕は最近、夏目漱石の小説を幾つか読んでいったんですが、なんだか夏目漱石の小説よりも夏目漱石本人そのもののほうに興味がうつってしまい、漱石ってどうしてあんなに懸命に小説を書いたのか? とか、漱石はなんのために小説を書いたのか? とか、漱石はどういうものを書きたかったのか、とか漱石の教育論ってなんなんだろうとか、漱石は肉親や正岡子規の死をどのように感じていたんだろうか、とか漱石本人のことのほうが知りたくなってしまいました。




漱石は処女小説の『吾輩は猫である』を書き始める直前には、ロンドン留学で差別と引きこもり生活を体験して散々な目にあって意気消沈しており、無二の親友であった正岡子規とも死に別れて、夫婦仲も悪く、子供も憎らしい、という状態だったようです。それで、正岡子規の弟子だった高浜虚子に「山会」に「なにかちょっと文章を書いてくれませんか?」と言われたときに、漱石は猛然と小説を書き始めたのでした。 「山会」というのは、正岡子規が立ち上げた朗読会で、ここで何かを発表するということは、そのまま雑誌「ほととぎす」に掲載されるということだったようです。漱石は、正岡子規との日々が懐かしくて小説を書き始めたんじゃないかと思えてなりません。




漱石が生まれて初めて小説を書き終えたとき、なにをしたかご存知ですか? 子規の弟子だった高浜虚子に「吾輩は猫である」という原稿を手渡して「ちょっと今ここで読んでみてくれ」と言って自分の小説の朗読をやらせて、自分の書いた物語を聞きながら大笑いしていたそうです。よほど創作で気分が晴れたんでしょう。




僕は小説を読んでいると気が散ってしまうんですが、自伝や評論やノンフィクションを読んでいると集中して読めるという、少し奇妙な傾向があります。おそらく、芸よりも人の肉声を聞きたいからなんだと思います。芸を見るのならば美術や映画のほうが実感しやすいですし、癒しを求めるのなら音楽のほうがすんなりとよく入ってくる。ものを考えるのなら評論やルポルタージュや哲学書のほうがより深く判る。じゃあ小説ってなんのためにあるのか、というのがどうもよく判らないんです。ぼくは小説に対する拒否感というか苦手意識というのは昔からけっこう強くあるので、あんまり小説に入り込めない。あまり小説に親しめない人にとって、小説の専門家である夏目漱石の小説論は、文学への理解力を深める良い評論になっていると思います。短い評論なのでぜひ読んでみてください。




漱石は、対立する二つのもののうちの片方を否定するのではなく、二つのもののそれぞれの価値がどのように存在し、両者の特性を考察しながら、それらをどう超克しうるのかを説いています。




夏目漱石って、顔も男前ですけど、考え方がかっこいいんですよね。人の心に触れる小説というものを認めながら、触れない小説(不断着の小説)というものの必要性を説く。夏目漱石は人情を否定していないのにクールで冷静な態度を前面に押し出しているんです。人情や生活を粉みじんに破壊する新自由主義者とかとは全く違う魅力があります。漱石は英国文化を交えながら新しい日本の思想を練り上げていった人ですから、中身が男前。






http://akarinohon.com/basic/takahamakyosi_jo_natumesouseki.html (ページ数 約25枚)




 

長崎の鐘 永井隆

  • 2011.08.15 Monday
  • 19:09

今日は戦争と戦後に関する本を紹介したいと思います。
永井隆は放射能に詳しい長崎の医師で、昭和20年(1945年)の8月9日に長崎に落とされた原爆の被害にあいながらも、生涯医師を貫き通した方で、『長崎の鐘』は原爆投下後の長崎の様子を克明に記した被曝体験記です。




先日、新宿の映画館で新藤兼人監督の『第五福竜丸(1959年作)』を見てきたのですが、これはほんとうによく考えて作られた映画で衝撃を受けました。映画って小説と違って万人が見るものですから、そうやすやすと難解な事態を社会派の物語に作り上げられないと思うんですが、新藤監督は脚本を自ら書き上げ、この映画の上映にこぎ着けています。50年経ってから見て、見ているだけですごいと思うんですから、作るのはもう想像も出来ないほどの力が必要になるんだと思います。




『第五福竜丸』というのは1954年3月1日マーシャル諸島近海において原爆実験に遭遇してしまった漁船のことを主題にした映画で、そこに乗っていた漁師達の人生を描いたものです。新聞記者や漁師の奥さんたち、放射能に恐怖する市民、医師、米国の要人など、ありとあらゆる人物が登場し、まるでドキュメンタリー映画のようにリアルに物語が描かれてゆきます。形式はフィクション映画ですが、これはノンフィクション映画と言っても良いようなリアリティがあります。ただ、この映画は興行的にはまったくふるわず、大借金を抱えることになって、次の映画『裸の島』で復活を遂げることになるんですが。僕は最近、新藤監督の映画を数十本見ていったんですが、新藤兼人監督の一番の魅力は「現実から逃げない」ということなんだと思います。




ただ悲惨なことを表現する映画ってたくさんあるんですけど、この映画は悲惨さを売りにして客寄せをしてやろうというようなふざけた映画とはまるで違うんです。現実を万人に判ってもらおう、という意図で作られています。ですから、視聴者が狂気に陥らないように細心の注意を払って物語が組み上げられています。過酷な現実と、朗らかな日常が交互に積みあげられていて、見ていて感情移入できます。ようするに新藤兼人監督の生命賛歌の感覚が生き生きと映像化されていて、悲惨な現実を乗り越えるような生命力が映画全体にただよっているんです。新藤兼人映画を見ていて一番すごいなと思ったのは、立場の異なる人が、すごく重要なことを明言していて、その本来遠くにいる人との距離がぐっと縮まる部分です。たとえば『第五福竜丸』という映画では米国大使が重要な場面で、このような悲劇は二度と繰り返してはならない、と宣言しているんですが、物語の展開上それが見ている人にすんなりと良く入ってくるんです。当時の米国人と日本人とでは立場がまるで異なるんですが、同じ思いを噛みしめている。




他にも新藤兼人監督の『午後の遺言状』という映画では、ゲートボールをやっているご老人を襲ったおかしな男が出てきて、すごい大事なことを言うんですね。私たちとはまるで違う、おかしな人間なのにすごく大事なことを言う。『生きているかぎりーー』というそのすごい大事なことが、ほとんどそのまんま、新藤兼人の最新作の主題になっている。

立場の異なる人こそを熱心に描いている、明確に捉えている、というのが新藤兼人映画の真骨頂なんだ、と気付かされました。




医師の永井隆は昭和20年(1945年)の敗戦後、長崎でどのようなことが起きどのような実感を持ったかを丁寧に書き記しています。8月15日に玉音放送がラジオで流れ、市民がその放送をどのように解釈したのか、そういったこともよく判るように書き残されています。ほんとうにどういう状況だったのか、というのがはっきりと記されています。原爆による被爆と原子力発電所事故とはその危機も性質もまるで異なっていて、まったく比べられないものですが、とくに健康への影響については原爆被害を調べるよりも、チェルノブイリよりもどのように厳しいか、或いは希望があるかという事を比較すべきですが、危機に直面しても熱心に仕事をやり遂げようとする人が66年前にも、現代にも実在するというのは、私たちが今、知っておくべき現実ではないかと思います。




少なくとも『長崎の鐘』のような本を読み継いできた日本人ならば、世界中の技術者達が運転は不可能であると断定した【高速増殖炉もんじゅ】のようにナトリウムとプルトニウムを使ったFBRを、廃炉にしてゆくことが私たちの選ぶべき道であると判断できるはずです。安全な原発についての稼働は意見の分かれるところですが、ドイツやイタリアが原子力発電所の全廃を決めているのに、日本ではまだ老朽化した原発や危険な原発を稼働させているというのはどう考えても異常です。よく、原子力に代わるエネルギーがないと言われていますが、これは短期的にはLNG発電所の新設を中心とし、長期的には自然エネルギーを選択するより他、道は無いと思われます。永井医師の祈りが記された本を、新エネルギーの話と絡めて紹介することは心苦しいのですが。




これ以上の原子力災害は起こすべきではない、ということは全ての人の願いです。同時に、大地震と津波は何千年も前から必ずある周期で起きている、ということも事実です。齢九十九になるまで六十年以上にわたって社会派の映画を撮り続けてきた新藤兼人監督が、文藝春秋の9月号で、原子力事故に対する説明と解釈があいまいである、と述べておられました。




新藤兼人監督は「なんにでも終わりがあるように、ついに私にも終わりの時がやってきました。私は居なくなってしまいますが、私のことをいつか思い出してくれるのならば、新藤兼人という存在は死なない。映画や文藝は社会を動かしうる力を持っているものですから、それを作る人が現実から逃げず立ち向かえば、私たちが実現したい社会が作れるんです」と述べておられました。





http://akarinohon.com/basic/nagasakino_kane.html (ページ数 約200枚)


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