月に吠える 萩原朔太郎

  • 2011.12.06 Tuesday
  • 00:20


今日は萩原朔太郎の詩集「月に吠える」を紹介します。萩原朔太郎は、日本でいちばん有名な詩人かもしれません。その代表作がこの「月に吠える」です。


今日僕はニーチェという深刻な哲学者が書いた詩集を偶然手にとって読んでいたのです。そうすると甘い言葉と言いますか、人生や青春を謳歌するような詩の数々が書き記されていまして。ああ、これは良いやと思いました。あのニーチェが、なんと夢見がちな詩を書いたのだろうかと感心してしまいました。


ニーチェはもともと、ものすごく深刻なことを考える哲学者なんですよ。当時絶大な権力を誇っていたキリスト教に対して、たった1人で、その権威的な組織に対して、まっこうから異を唱えたのがニーチェです。巨大な不正に対して、それを一人で突き崩そうとしていたのが哲学者ニーチェの姿です。それは福島の原発事故が起きる前に、科学者がその危険性を何十年も訴え続けるようなもので、当時の情勢から見れば、勝てるはずのない訴えです。そういう真面目な人物が、ふと詩を書いてみると、なんとも若々しくて甘い詩になってしまう。権威や堕落に対して苛烈な批判を行った哲学者ニーチェが、じつはデレデレとした世界を好んでいたというのがじつに興味深かったです。


一つだけ、ニーチェの詩を紹介してみます。

クリスマス

おお、日は晴れわたり、おお、日はなごみ、
喜びにあふれ、なんたる美しさ、
鷹の飛翔に似て、おおらかに、さえぎるものとてなく、
花畑にふちどられた泉の、
こんこんと湧き出ずるごとく、
陽光に照り映えて、あざやかに澄みとおる!

ぼくの心は、その日を見ると、歓呼の叫びも高らかに、
雲雀のごとく大空に舞いのぼる。
予感にみちた調べとなって、
あまたある甘美な秘密を告知する
竪琴の合唱を聞くに似て、
ぼくの耳は陶然として、酔いしれる!
(ニーチェ 一八五八年)


無力な若者の悲劇に怒り、権力の腐敗を苛烈に批判したニーチェとは思えないのような詩です。詩の機能について、改めて考えさせられました。


萩原朔太郎の詩集を通して、詩作に目覚める人がいたりすると良いな、と思います。
今、この時代に必要とされているものは、その人が生涯忘れられない詩集なのかもしれません。


萩原朔太郎は近代詩の父と呼ばれる詩人で、「詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである」と述べています。普段、詩を全く読まない人に萩原朔太郎の詩を読んでほしいです。代表的な詩に《月に吠える》《恋を恋する人》《竹》などがあります。
この詩集は、与謝野 晶子や岩野 泡鳴から絶賛され、宮沢 賢治や堀 辰雄が愛読しました。
55編の詩を収録しています。

ぜひ、お読みになってください。


こちらのリンクから全文お読みいただけます。

http://akarinohon.com/center/tsukini_hoeru.html (約40頁 / ロード時間約30秒)





ランボオ詩集4

  • 2011.11.18 Friday
  • 18:58


今日はランボオ詩集4を紹介します。これは詩人の中原中也が翻訳したものです。
ランボオの詩は、小林 秀雄が翻訳したものが有名です。
小林 秀雄の翻訳したランボオを愛読する人にとっては、他の翻訳はどうもしっくりと来ないそうなのです。中原中也訳でランボオを知った人も、それはそれで別の翻訳だとなんだか違和感があるんじゃないでしょうか。




ランボオとは関係ありませんが、英語教師であった夏目 漱石が翻訳について教えるとき、生徒に「“I love you.”をどう訳す?」と質問したことがあります。それで生徒が「我はなんじを愛します」というような直訳をした。すると、漱石は生徒をキッとにらみつけて「日本男児がそんなことは言わん」と断言しました。「今夜は月がきれいですね」こう翻訳するのが正しいのだ、そうです。







ルバイヤート オマル・ハイヤーム

  • 2011.11.07 Monday
  • 22:07


今日はオマル・ハイヤームという詩人の『ルバイヤート』という詩集を紹介します。
オマル・ハイヤームというのはイラン=イスラーム文化の代表者で、天文学や数学に長けた学者さんでもあった人物です。イスラーム文化といえばまず思い浮かぶのはイスラム教の開祖であるマホメット(ムハンマド)です。




僕はイスラム過激派が起こした大きな事件以来、本来のイスラム文化というのがどういうものだったのかというのがとても気になっていて、それで井筒俊彦の『マホメット』を読んで、ほんとうに目からウロコが落ちたというか、「学問って、こんなに面白いのか!」というショックを受けました。マホメットという歴史的人物に魅力があるのは当たり前かもしれませんが、それ以上に井筒俊彦という学者の情熱的な表現に魅入られたんです。




井筒俊彦の『マホメット』は、イスラームの起源を史実通りに正確に解説している書物ではあるのですが、その表現はほとんど映画や物語絵巻のようなダイナミズムがあります。なによりも情感を中心にしてイスラーム文化の勃興を伝えようとしていて、激しい文学に突き当たったような衝撃を受けますよ。イスラム教の起源を知りたいという人は、ぜひこの本を手にとってみてください。イスラム教はどのような理由で発生して、マホメットは人びとのどこを改めんと欲し、なにを警告していたのかがよく判ると思います。




子どもの頃に感動した本というのはどんな人にでもあると思いますが、大人になってから「びっくりした!」と思う本はめったにないかと思います。僕にとって井筒俊彦の本は、独学に目覚めさせてくれた、転機のきっかけを与えてくれた本です。




井筒俊彦の『マホメット』について、ほんの少しだけ紹介してみます。
マホメットは、イスラーム教の開祖であり、のちに他文化の人びとからむごたらしいほどに否定されたこともある人物ですが、マホメットが本来求めているものは「他文化に対する攻撃や破壊」というものとはまったくかけ離れたものです。マホメットはもともと商人であり、自分たちの問題を解決しようということを中心にして宗教を興した人物です。マホメットは【長く持続できる商売】の障害となるものを変えてゆこうとした、商売を壊す者の心情を改めさせ仲間に招きいれてゆこうとした、というのがイスラーム教誕生の重要なポイントです。ですから人びとの生活を壊すイスラム過激派と、本来のイスラム文化とはかなり考え方が違います。




マホメットが警告した相手は、無道時代のベドウィンです。マホメットや井筒俊彦は、この血族や闘争を好むベドウィンを否定する立場で描いているのですが、僕はその本を読んでいて、批判されているベドウィンという砂漠の民にどうにもいわく言いがたい魅力を感じてしまいました。




無道時代のベドウィンは砂漠の騎士道を信じていた。ベドウィンはその生活態度において驚くばかり保守的で、血族の命令を信じ、祭りを祝い、掠奪を繰り返し、血で血を洗う闘争をいつまでも繰り返している。それはベドウィンたちが過去に対する激しい執心を持ち、自分たちの過去を痛愛し、自分達の過去に執着しているからである、と井筒俊彦は指摘します。現代の私たちがおりおりするように遠い懐かしい憶い出の世界に赴くのではなく、砂漠の民ベドウィンにとって過去は現実の一部である。




マホメットは、彼らに対して絶叫します。「汝らは、祖先の歩んできた途が明かに蒙昧頑愚の途であることを知りながら、しかもなお過去に執着することをやめないのか」

なぜベドウィンが掠奪と闘争を終えないのかというと、それはその部族が血の繋がりを神聖なものとして絶対視し、血族と共に迷い、正邪善悪の区別なく、いついかなる場合でも血族と行動をともにしているということが、ベドウィンの唯一の在り方だからである、とマホメットは警告します。現代日本でこれを言い換えてみれば、原子力発電所が自然災害に弱いと判ったあとにも、まだ地震大国で原子力発電を推進しようとする態度に似ています。血族の命令に異議を述べられないから悔い改めることが出来ない。




このように激しく否定された砂漠の民ベドウィンであるのですが、このベドウィンというのが詩作や芸能という分野に於いて、ものすごく魅力的なんですね。井筒俊彦は、イスラームがあれほど華やかに成功をおさめたのは、この無道時代に大きな素地が出来上がっていたと分析します。イスラーム繁栄の素地は「無道時代の最後を華やかに彩る青年層の、すでに限界に達した精神状況の裡に求めることができる」(P.44)と井筒俊彦は指摘しています。




彼らは詩作や音楽を愛してやまなかったのですが、その特徴を、井筒はこう表現します。
アラビア砂漠の只中では「眼光射るごとく耳はシマウより敏き」男が理想的人間であった。(p.49)こういう極度の感覚性には長所もあれば短所もある。彼らがその比類なき感覚を以て現実から受けとる個々の形象や映像は実に新鮮で強烈ではあるが、しかしそれを通して彼らが観る世界はそれらの個々の印象の雑然たる集塊であってそこにはなんの論理性もない。


現代エジプト大学の教授としてその学風を敬慕されているアフマド・アミーンは「イスラムの黎明」という興味ある書物の中で、これについて書いている。

「ベドウィンは物のまわりをぐるっと廻って見る。そしてそこに色彩燦然たる真珠の玉を幾つも幾つも見つけ出す。けれどもこの美しい真珠の玉には、それらをつなぐ糸が通っていないのだ」(p.50)




僕は、この指摘がすごく秀逸だなと思うんです。これはなにも、ベドウィンにかぎったことではない。短期的な快適さを手に入れるのは上手でも、長期的に向上してゆく戦略が無い、という事態はほんとうに良くあることだと思います。




「感覚の世界を論理的に統一して把握する」ことが出来ないベドウィンは色彩燦然たる世界を幾つも見つけ出すが感覚的世界を超越することが出来ず、自身らの儚さを痛感して、彼らは「徹底した現実主義者となる」(p.50)と、井筒俊彦は述べます。




マホメットは、この脈絡のない不和が生滅する世界に一本筋を通して、全体を見渡せる状態にして、長々とつづく商人文化を栄えさせました。現実が儚い。自分が儚い。と、ベドウィンが意識しはじめた頃に、イスラム教が興ったのです。

恐ろしい自暴自棄に陥って、ただ官能的快楽の追求のみに日夜を送っていた彼らを、マホメットは一体どんな方法で救済へ導こうとしたのか。詳しくは井筒俊彦の「マホメット」を読んでみてください。





井筒俊彦はマホメットの無常観や、むなしさや、人生の儚さ、哀愁(あいしゅう)を読み解いてゆきます。
そして、マホメット以前とマホメット以後の大きな違いをこのように指摘しています。


  • ベドウィンの人生観においては、哀愁と享楽主義が表裏一体である。
  • マホメットにおいては、哀愁は、悔い改めに通じている。




「なにくそ」と思うことがあった時、その怒りを学問や仕事にぶつけるのか、その怒りを愉楽で自己慰安するのか。この「ベドウィンとマホメット以後」の対比というのは、誰にでもよく当てはまる違いだと思います。そういえば昨日の私はベドウィンのようであった、今日はすこし悔い改めに通じている気がする、と思う人は多いんじゃないでしょうか。




オマル・ハイヤームという詩人は、マホメットがイスラム教を興した400年後に、全く新しい視点でベドウィンのような人生観を肯定しようとし、享楽主義をむしろすすめ、過去への悪しき執着から生じる不和を解消しようとした詩人です。オマル・ハイヤームが「酒を飲もう」と述べているのは、それはイスラム法で飲酒を明確に禁止しており、それに抵抗するという意図があってしきりに酒を飲むことを推奨しているようです。酒にひたることだけは止めたほうが良いとは思いますが、悲嘆からの解放を目指して何らかの享楽を用いることに、異を唱える現代人は居ないはずです。







 
 
amazon 井筒俊彦「マホメット」


calil 井筒俊彦「マホメット」


ランボオ詩集3

  • 2011.10.26 Wednesday
  • 19:18


今日はランボオ詩集3を紹介します。


ランボオというのは、文学者や芸術家やはては哲学者にまで大きな影響を与えた詩人ですが、21歳になった時に彼は文学という世界から離脱して世界を放浪しはじめます。生涯一つの事に打ちこんだ人物ではないです。かなり危険な仕事もいろいろやっています。閉じ籠もらない人物ですね。変化を旨としている。いったん本業から離れて別のことを重視しているのに、かえって本業での成果が目覚ましくなるという人物です。




外部から様々なことを実体験として得て、それを言葉に収斂させています。ランボオはアカデミックな分野にまで成果を残しましたが、派閥の中で地位を積み重ねてゆくといったような行為にはまったく興味を持っていません。マラルメがランボオの詩の特徴を捉えて「おそるべき通行人」と述べていますが、これが一番ランボオらしさをあらわした解説ではないでしょうか。




ランボオは明治維新が起きていた時代にヨーロッパ諸都市からスカンディナビア、ジャワ、アフリカと世界各地を放浪します。ランボオは詩で儲けた人ではないわけで、職業詩人ではないです。幼い頃のランボオは細身の美少年ですが、その精神は軍人や「鉄の女」と呼ばれた母に育てられたものであり、荒ぶる人格者です。詩を読んでいても野性味溢れる魅力というのがあるかと思います。日本で言うと誰でしょうか。坂本竜馬とか、ジョン万次郎のように、変化に富んだ人生だったと言えるかもしれません。











ランボオ詩集2

  • 2011.10.23 Sunday
  • 11:44


今日は中原中也が翻訳した『ランボオ詩集』のその2を紹介します。
『ランボオ詩集 1』を読んでいない方は、こちらをどうぞ



中原中也は詩の翻訳が専門ではなくて、本人自身がとても有名な詩人ですが、ランボオが好きで好きでしょうがなかったようです。それでランボオの詩を熱心に翻訳しました。

僕は翻訳という業界についてはまったく知らない男なんですが、こんな話を聞いたことがあるんです。
『外国語に詳しい翻訳家よりも、医学に詳しい医療系ライターのほうが、西洋の医学書を翻訳してもらうには適任である』

どんな分野にも言えることだと思いますが、自分が専門としている分野以外になにか「好きでしょうがないもの」を見つけるのが大切だと思われます。

絵描きさんでもそうで、絵のこと以外何一つ好きじゃない絵描きさんが描いた絵よりも、古民家が好きでしょうがない絵描きさんの絵のほうがやっぱり見ていて楽しいのです。





http://akarinohon.com/center/rimbaud2.html (ページ数約10ページ)

ランボオ詩集1 

  • 2011.10.03 Monday
  • 05:40


今日はランボオ詩集1を紹介します。中原中也が翻訳した詩集の一部分です。ブラウザで詩を読むのなら5作くらいをひとまとめにして公開してゆくほうがじっくり読めるかと思うので、少しずつ紹介してゆければと思います。


詩人の草野心平の弟さんである草野天平という人が詩人について面白いことを書いています。

  • 詩のやうなものをただ書きさへすれば、それでもう詩人だといふやうなことは絶対に云へない。志を持つ人、といふと少し固く道徳的な感じがするが、少くともその感じに非常に近い、或る充実して爽やかな気持を得るために歩く人、又は歩き得た人、これこそ間違のない真の詩人だといふ気がする。

どうも詩人という世界には、「見えない詩人」というのが居るらしいのです。透明な詩を抱えた人、あるいは「透明な詩人」というのが存在するのかもしれない。




http://akarinohon.com/center/rimbaud1.html (ページ数 約5枚)

わがひとに与ふる哀歌 伊東静雄

  • 2011.09.29 Thursday
  • 13:20


今日は伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』という詩集を公開します。
28編の詩からなる詩集です。
『わがひとに与ふる哀歌』は、文学者の大江健三郎さんがもっとも感銘を受けた詩集です。
くわしくは『すばる』 2011年 10月号をお読みください。
終わりから二つ目の『鶯』という詩がそれです。


晴れた日に
曠野の歌
私は強ひられる――
氷れる谷間
新世界のキィノー
田舎道にて
真昼の休息
帰郷者
同反歌
冷めたい場所で
海水浴
わがひとに与ふる哀歌
静かなクセニエ
咏唱
四月の風
即興
秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る
咏唱
有明海の思ひ出
(読人不知)
かの微笑のひとを呼ばむ
病院の患者の歌
行つて お前のその憂愁の深さのほどに
河辺の歌
漂泊
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(読人不知)




こちらのリンクから全文お読みいただけます。
http://akarinohon.com/center/wagahitoni_atauruaika.html (約40頁 / ロード時時間約30秒)



無地バージョンに差し替えました。(2011/11/28 追記)


http://akarinohon.com/center/wagahitoni_atauru_aika.html (背景画バージョン)


在りし日の歌 中原中也

  • 2011.05.31 Tuesday
  • 07:38



今日は中原中也の詩集《在りし日の歌》を紹介します。
この詩集は59篇の詩で構成されています。
ブラウザ上で全文お読みいただけます。




中原中也はこの詩集を、愛する子の夭折を思いながら書き綴ってゆきました。
文章を書きはじめたのは自己慰安からだった、と述べる文豪は数多くいるんです。
他人に見せて喜ぶと言うよりも、自分で言葉を創ってゆくための、ぼそぼそとしたつぶやきのようなもの。なにもこう、派閥争いのために誰かを批判するみたいな雰囲気で書きはじめたりはしなくていいわけです。




中原中也が夭折した子を思う姿を想像しながら読むと、詩の意図がつかみやすいのではないでしょうか。この詩集は、幼い死者との静かな対話としてある。
文章を書くのはなによりもまず自己慰安の気持ちから、ということがはっきりと判る詩集だと思います。




ヨシフ・ブロツキイという歴史的な詩人が「詩とは、作者と読者の二者で交わされる私的な会話である」と述べているんです。中原中也の詩を読み進めてゆくのに役立つかもしれないのでヨシフ・ブロツキイがノーベル賞受賞講演で述べた内容を、ここで紹介しておきます。(メモ帳に走り書きしたものなので、すこし原文と異なる文章になってしまっています。ご了承ください)



「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話なのです」

「この会話の瞬間に書き手は読み手と対等になり、読み手は書き手と対等になります」

「われわれはまったくの空っぽの場所から出発した。われわれが本能的に希求したのは、文化の連続性が持つ効力を再生させること、文化の様々な形式や比喩を復活させることでした」

「自分が他者と違う存在であることを示す。同語反復を避ける。つまり《歴史の犠牲》という栄誉ある別名で知られる運命を避けること。この点にこそ、文学の功績があります」


抜粋ではよく判らないかもしれませんので、ヨシフ・ブロツキイの本を紹介するリンクを記しておきます。
この本は、詩作を愛するきっかけとして、きっと役立つと思いますので、興味のある方はお読みください。




以下のリンクから59篇の詩をお読みいただけます。
時間がある時にゆっくり少しずつお読みください。





http://akarinohon.com/basic/arisihino_uta.html


中原中也詩集《山羊の歌》サーカス/汚れっちまった悲しみに/朝の歌

  • 2011.04.19 Tuesday
  • 07:28
中原中也の詩集《山羊の歌》を公開しました。
《サーカス》 《汚れっちまった悲しみに》 《朝の歌》など、
全文をお読みいただけます。

僕はなんと言っても、サーカスという詩が好きです。
「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という文字がたまらなく好きです。
他の詩で、これほど魅了されたオノマトペはありません。



幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


     屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
     夜は劫々(こふこふ)と更けまする
     落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん





高村光太郎『智恵子抄』

  • 2011.04.08 Friday
  • 18:10
詩人の高村光太郎が、他界した夫人智恵子をしのんで編んだ『智恵子抄』を全文お読みいただけます。

高村光太郎『智恵子抄』

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