吾輩は猫である 夏目漱石

  • 2011.11.29 Tuesday
  • 01:57


今日は夏目漱石の『吾輩は猫である』を公開します。
これは漱石の処女作です。処女作が有名な作家というと、ドストエフスキーの『貧しき人びと』じゃないでしょうか。歴史に残る作家は、たいてい処女作がすごいような気もしますが。「自分の処女作は模倣になってしまってあまり良いものが書けなかった」と述懐する作家も多いですし、後期になるほど優れた小説を書くという、晩成の作家もけっこういますし、処女作はたいてい短編小説になっている場合が多いようにも思います。現代作家の場合は3作品目くらいから長編小説を書きはじめる場合が多いんじゃないでしょうか。


漱石はこの自身の処女作を振り返って、ちょっと蛇足がすぎて小説として纏まらなかった、というふうな感想を書いています。それがかえって、夏目漱石マニアにとってはたまらない逸品として読めるそうなのです。漱石が主人公のネコやくしゃみ先生をほったらかしにして、自説をとうとうと語りはじめる場面が多々あって、そこが中期後期の漱石には見られない赤裸々で迫力のある文章になっています。


明かりの本で『吾輩は猫である』を全文お読みいただけます。が、この機会にこれを少し読んでみて、これは最後まで読み通してみたいものだと思った方は、ぜひ岩波文庫版の『輩輩は猫である』をお買い求めください。岩波版には読みにくい漢字にふりがなが振ってあって、すらすらと読めるように編集されています。


名作をポケットに。ぜひ。




http://akarinohon.com/center/wagahaiwa_nekodearu.html (約350頁 / ロード時間約60秒)


若草物語 ルイザ・メイ・オルコット

  • 2011.11.20 Sunday
  • 08:00


今日はルイザ・メイ・オルコットの「若草物語」を紹介します。19世紀後半の南北戦争時代のアメリカを舞台に、家族の絆を描いた物語です。原題のLittle Womenというのは、父親が娘たちのことを、自立した女性として呼んでいた名前です。



これは実話をもとにした物語なのだそうです。名作映画のコメンタリーとかを見ていても、実話というのをいかに誠実に物語化するのか、実話をいかに上手く翻訳してゆくか、というのがどうもだいじみたいです。



この「若草物語」は、姉妹のそれぞれの独特な性格が魅力でそれぞれ、虚栄心とか、怒りっぽいとか、なんでもかんでも恥ずかしがるとか、そういう欠点を持っています。ジョーという女が、作者ルイザ・メイ・オルコットの分身のような人格として描かれているそうです。「自分の心の中の敵」と向かい合い、それを克服しながら成長してゆくという古き良き物語です。






http://akarinohon.com/basic/wakakusa_monogatari.html (約100頁)


それから 夏目漱石

  • 2011.11.15 Tuesday
  • 21:14


今日は夏目漱石の【それから】を紹介します。これは漱石の三部作『三四郎』『それから』『門』の中の、二番目の作品です。ただし三作品はそれぞれ完全に独立した物語ですから、どれから読み始めてもまったく問題なく読めますよ。




「それから」という小説は、モラトリアム人間である長井代助が主人公です。すでに30歳を迎えとうに働くべき年齢でありながら、まだ社会的義務を猶予されている状態の男。親の資産に余裕があるので働かずにただ理想的な仕事を探しているだけという状態の若者が、この小説の主人公です。




代助には理想があるのですが、その理想と現実との乖離が大きく、まだ社会で働く方法が見出せていない人物です。タイトル通り「それから」どうなるのか、ということが中心の小説です。これは漱石の最高傑作と言われることが多い作品です。




僕はこの小説をかなり読み飛ばして結末を読んでしまったことがあるので、これを機会にちゃんと読んでゆこうかと思います。これはなんというか、まさに今こういう状態なんだ、と言う人が読むと良いんじゃないですかね。




平岡、という男が現実的に働いていて、妻の三千代を養い、そのためにどこか身も心も疲弊しているような印象があります。それとは対照的に主人公の長井代助は働かずに食べていて、心持ちだけは高尚なんです。でも世間から受け入れられない。社会における立ち位置が無い男です。




その男が、まあ金はあるので遊んだり学んだりすることは出来る。遊んだり学んだりしているうちはいいんですが、いずれ破綻することは他人から見れば目に見えている。そういう閉塞した状態で、代助は友人平岡の妻と不倫します。都会に現出した無人島のような世界観で、代助と三千代は二人だけの密会を重ねる。漱石の描く三角関係はとても特徴的で、緊張感があります。




少し長い小説なので、明かりの本の中では、ダンテ神曲に次ぐ読み応えの本です。十七章からなる大長編です。【一の一】からはじまり【一の二】【一の三】と進み、【十七の三】で完結します。一気読みは不可能だと思いますので、右クリックボタン(コンテキストメニュー)を押して、しおりをはさみながら読み進めてみてください。




明かりの本で読んでみて、これは最後まで読みたいと思ったら、ぜひ本屋さんで「それから」を買ってみてください。


三四郎 夏目漱石

  • 2011.10.24 Monday
  • 11:07

今日は夏目漱石の三四郎を公開します。
前回紹介したのですが、どんな本なのかをまったく記していなかったので、改めて紹介し直してみようと思います。




これは夏目漱石の、かなり代表的な小説です。漱石の教養小説の中ではいちばん念入りに書かれていて、読みものとしてもっとも面白い本だと思います。今、学生さんをやっている人には、なによりも一番お薦めできる小説だと思います。ちょうどそういう状況に当てはまる、というかたは、ぜひ読んでみてください。おそらく漱石の文章は、どのような講義よりも魅力的な内容であると思います。『明かりの本』でも全文読めますし、本屋で買ってみるのも良いと思いますし、図書館で借りて読んでみるという方法もありますよ。とにかく今学生をやっていて、なにか教養というもんに触れてみたいという願望がある方はぜひともこれを読んでみてください。これはあなたのことが書いてある小説です。漱石が、未来の学生さんのために書いた、まさにあなたのための小説です。




漱石をこれから読み込んでみたいというのなら、この『三四郎』を読むのが一番良いと思います。なんといっても、これは単純に面白いです。『学生時代に悩んでいる』ということそのものが小説の中心になっています。学生時代は、あと何年か経てば社会に繋がってゆくわけですが、ほんとにどのように社会に出られるのか判らない、という気持ちで居る学生さんが何割かいると思います。そういう方にとってバイブルと言っていいような内容になっています。




明治時代の学生というのは、将来どんな仕事が出来るのかさっぱり判らない時代だったんですね。学問を身につけても、社会からの需要がまだ無い時代ですから。学んでいるのに社会と繋がる方法が無い、ということが一つの大きな問題だったわけです。そういう時代の学生の悩みがみごとに描かれています。ですから2011年という今、この『三四郎』というのはいよいよ本質的に「ためになる小説」だと言えると思います。




この物語は夏目漱石が、自身の体験をふまえてかなり嘘偽りなく、学問をやる若者と社会との関係において起きる問題を克明にとらえていった小説です。大げさなことを言うようですが、たとえば学生をやっていてですね、「どうもちがうんだ」と思っている人がですよ。漱石の文学世界に深入りしてゆくのか、それとも別の組織に深入りしてゆくのかで未来が大きく異なってくると思うのです。

このままてきとうにやってゆけば問題ないだろうという生まれつき幸せな人はそもそも教養を身につける必然性があまりないとは思います。しかしそうでなしに何らかの問題を抱えているので、自分はしっかりと教養を身につけて社会で独り立ちしてゆく力をつけねばならないと考えている人は、この漱石の三四郎が大きな意味を持ってくると思います。ある程度知性のある方は、例えばなにか犯罪に手を染めてしまった場合などに引き起こす問題の度合いが強くなってしまいますから、そういう賢い人は師となる先生が必要である、というようなことを過去の偉人が述べていましたが、偶然身近に尊敬している先生が居ないという方は、ぜひ夏目漱石に私淑してみてください。




この三四郎という物語には、迷子(ストレイシープ)というのが一つのキーワードになっています。この言葉を注意深く見詰めてください。ストレイシープというのは新約聖書ルカによる福音書・第15章に登場する『いなくなった羊を見つけた喜び』のことなのですが、漱石にとってのストレイシープはなにを意味するのか、物語を読み進めながら探ってみてください。第五章と最終章で、三四郎と美禰子の会話で登場します。漱石はおそらく、美禰子や三四郎のようにどこかこの先の未来へとうまく繋がってゆけない人のことをこう呼んだように思います。漱石はストレイシープとなりかねない人に語りかけているようです。




読んでみれば判るのですが、これが江戸時代のちょっとあとに書かれたものとはとても思えないような現代性があります。ちょっとあらすじを紹介しておきます。おおまかなあらすじを知っておいたほうが読み進めやすい、というかたは読んでみてください。本文を読む前にあらすじを知りたくないというかたは、こちらのリンクから本文をお読みください



主人公である三四郎は一人で上京するために汽車に乗っています。そこで異性にであう。なかなか好感の持てる九州出身の人物です。その異性から話しかけられて、三四郎は戸惑います。そのすてきな異性が「一人旅で心細いので、一緒に宿屋に泊まりませんか?」と話しかけてくる。主人公は純情なものですから、断ることも出来ず、しかし異性を口説いて恋仲になるような勇気も持っていない。「ああ自分に当てはまるな」と思ったあなたは、ぜひ本文を読んでみてください。それから三四郎は都会の立派な学校で学び始めます。生まれて初めての体験ですから、その学問というものにものすごいあこがれがあるわけです。学校に入り立ての頃のことを思い出してみてください。たしかに自分に当てはまると思うのではないでしょうか。




三四郎は田舎から東京へ出てきます。そして都会の大きさに喜びと不安を感じます。充実した日常なんですが、どこか昔よりもいっそうさびしさや孤独を感じる。その不安をふりはらうために、大学で熱心に学ぶのですが、「なんだかどうもちがう」と感じる。学問に身が入らない。どうにも物足りない。


そうして佐々木という青年が、三四郎におもしろい指摘をするわけです。
「君はずいぶんまじめに講義を聞いているようだな」
三四郎は答えます。「うん、一週間に約四十時間ほどになる。しかしこれが物足りないんだ」
佐々木は言います。
「馬鹿々々。下宿屋のまずい飯を一日十回食ったら物足りるようになるか考えてみろ」
 大学の授業が、まるで「まずい飯」のようなもんだとたとえる、生意気な生徒さんなわけです。

それで佐々木は、三四郎に都会の遊び方を教えるんです。
三四郎を満足させた佐々木は
「これから先は図書館でなくっちゃ物足りない」
と告げる。
三四郎は、それで授業を半分に減らして空いた時間に図書館へ行くことにします。
漱石は物語の中で「明治の思想は西洋の歴史に現れた三〇〇年の活動を四十年で繰り返している」と記します。漱石は自分が今置かれている立場を客観視させてくれます。初期や中期の漱石は物語に教養を含めてゆくと言うことにかなり熱心であったように思います。実際、漱石には多くの弟子たちがいて後進を育てています。




三四郎の登場人物には、どこか抜けているのに鋭い指摘をする人々が多く登場します。この物語は、なかなか滋養に満ちたことを言う人たちが多くて面白いんですよ。
広田先生というのがいちばんするどい指摘をする人かもしれません。




それから、漱石の話は哲学的な考察が鮮やかに書き記されているのも特徴です。
夜にですよ。病に罹った妹のために急に家を空けることになった知人の家に、たった一人で取り残される三四郎。それが真夜中になって、見知らぬ竹藪の奥底から、怖ろしいうめき声を聞くんです。それから闇夜の中を這うように歩いて、その声がしたところへ向かう。続きは本文を読んでいただきたいのですが、その夜の恐ろしさと、まったく同じことがらを、知人が「昼に」体験したがるんですね。まったく同じ事件であるのに、暗闇の中に一人立っている人のみたものと、昼にその話しを聞いた男とで、印象がまったく異なる。





http://akarinohon.com/center/sanshiro.html (ページ数約600枚)


外套 ニコライ・ゴーゴリ

  • 2011.10.19 Wednesday
  • 15:27


今日はニコライ・ゴーゴリの『外套』を紹介します。
『外套』はロシアの文学のなかでもっとも有名な中編小説ではないでしょうか。ドストエフスキーがこの『外套』のことについて「我々は皆、外套の中から出てきた」と述べていていて、自身の「貧しき人びと」という小説の原点のように捉えているのです。アメリカで言うと『ハックルベリフィンの冒険』が同じように文学者たちによって高い評価を受けています。




これは寒さや貧困といった自然な感覚と、不自然な大組織との対比が見事に描かれている小説です。アカーキイ・アカーキエウィッチという風変わりな名前の主人公は自分の仕事に夢中で、世間で持て囃されているような幸福にはほとんど興味を持っていない、孤独好きな男なんです。そして、なにかというとからかわれている。純情さや偏狭さが目立つ、馬鹿にされてしまいやすい男なのです。仕事中にも同僚がなんやかやとへんないたずらをしかけてくる。


あまりいたずらが過ぎたり、仕事をさせまいとして肘を突っついたりされる時にだけ、彼は初めて口を開くのである。「かまわないで下さい! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?」それにしても、彼の言葉とその音声とには、一種異様な響きがあった。それには、何かしら人の心に訴えるものがこもっていた


こういう純粋で生真面目な男が、ボロボロになった外套(がいとう)ではどうにもこの冬の寒さを乗り切れそうにないと悩んでいる。彼は役人でありながら大変な貧乏暮らしで、服を買えるような貯金さえ無かった。




中国の太古の思想家である老子は「有るということよりも、無いということが重要なんだよ。無い、ということが有るということを機能させている」というような哲学を述べていますが、アカーキイ・アカーキエウィッチにはカネが無いんですね。それから地位とか名誉とかいうもんが無い。また凍死を防ぐような服が無い。そうして彼を助けるような隣人の愛が無い。このままでは未来が無い。この無い無いづくしの状況で、どうしても外套を買いたい。外套がないと凍死してしまう。しかしカネがないから服が買えない。【衣食住】というのが人の原点のようなものであるのですが、このゴーゴリの小説は、外套が、人としてどうしても必要なものなのだ、と訴えてきます。




つぎはぎだらけの外套は、もはや修繕さえ出来ないほどボロボロになっている。貯金はほとんど全くない。しかし彼はなんとか生活を切り詰めて、新しい外套を買おうと決心する。彼はあたたかい外套を着て街を歩く姿を想像します。その時の、彼の、未来が有るじゃないかという感覚が私たち読者に強く焼き付いてゆくわけです。残念ながらアカーキイ・アカーキエウィッチの結末は偶然の悲劇に見舞われて哀れなものですが。終盤は、いわゆる日本での封建時代などによくあった直訴と怨霊の物語になっています。




このゴーゴリの小説は、不自然な大組織の主義主張であるよりも、私たち個人個人の生活のほうを中心にしてものを考えてゆくべきだ、ということに気付かせてくれる物語なんじゃないでしょうか。外套を、【新調】するんだ、という時の、その新たな服への憧れをみごとに感じさせてくれるのがすごいなと思います。





http://akarinohon.com/center/gaito.html (ページ数 約100枚)

死刑囚最後の日 ヴィクトル・ユゴー

  • 2011.10.13 Thursday
  • 01:04



今日はヴィクトル・ユゴーの『死刑囚最後の日』を紹介します。


僕は死刑囚というと、冤罪事件のことを思い浮かべます。あるいは永山則夫のことを描こうとした、新藤兼人監督の映画『裸の十九歳』について思い出します。死刑制度には犯罪抑止力が無い、というのが通説です。死刑判決が増えたあとにも、むしろ凶悪犯罪は増えています。じゃあどうすれば良いのかというと僕には判らないのですが、死刑囚になるような犯罪をする時に、別の道があるのなら誰も死刑囚になどなろうとはしないはずだ、と思います。けっきょく別の道があるようにする、別の道があるということに気付きやすい社会を作るという長い道のりの支援策しかないようです。『裸の十九歳』では、主人公がさまざまな道を選ぼうとします。しかしことごとくその道が断たれる。持続可能性の高い道のりというのがどうしても必要で、貧困に負けない仕組み作りが大切であるようです。




『死刑囚最後の日』は死刑制度の問題について、作家のユゴーが物語形式で思索していった作品です。ユゴーといえばなんと言っても、「レ・ミゼラブル」です。僕は子ども時代に児童書として翻訳されたものを読んで、これがいたく気に入りました。主人公はどろぼうなんですよ。良い奴なんだけどどろぼうの魂を持っている。パンが食べたくてパンを盗んだ。それで捕まって19年間投獄されてひどいめにあって。いろいろさんざんな人生を歩んで、とても心優しい司教さまに助けられて、一晩泊めてもらって、その時にですよ。銀の皿を盗んでしまうんですね。ジャンバルジャンは。ほんとうに人の情けというのを知ってですよ、ああ、救われたと思った時に、なんでかまたその司教さまから、銀の食器を盗んでしまうという、これは法律上の罪だけでなくて、魂の犯罪を犯してしまうわけです。ほんとうに感謝している相手に対して悪さをしてしまうという、どうしようもないことを何故かしてしまう。悪気があってやったわけではないんですが、悪をなしたわけです。そしてその罪が世間によって暴かれてしまう、という時に、心優しい司教さまが「その食器は彼にあげたのだ。そしてこの銀の燭台も、彼にあげようと思っていたところだ」ととっさに作り話をしてかばってくださるわけです。それでジャンバルジャンは号泣します。いやその場では泣かないわけですが、彼の魂が泣く。それで、こういう善意ある人が居るのなら俺だってまともになってやるとジャンバルジャンは奮起して、立派な人間になるわけです。話はそれでどんどんどんどん続くんです。「レ・ミゼラブル」を読んだことのない人はぜひ読んでみてください。良い翻訳があればいいんですが。




この「死刑囚最後の日」は、死刑になる人間の心情をリアルに追っていった作品です。死刑囚の物語が克明に描かれています。かなり深刻な内容ですから、この問題について考えてみたい時に、ぜひお読みになってください。ユゴーがなぜ死刑制度に反対しているのか。ユゴーが追った、死刑囚の社会的背景とその生活環境についてが詳細に語られています。




http://akarinohon.com/basic/shikeishu_saigono_hi.html (ページ数 約250枚)


こころ 夏目漱石

  • 2011.08.21 Sunday
  • 03:46


今日は夏目漱石の『こころ』を紹介します。
この小説は夏目漱石の代表作とされる小説です。以下のURLから全文お読みいただけます。一度読んだことのある方も、ぜひこの機会にふたたび夏目漱石の『こころ』を読んでみてください。若いころに読んだ『こころ』とはまた異なる魅力を発見できるかと思います。





僕はこの小説をやはり、漱石自身である『先生』と、読者である『私』と、そして漱石の若き日の親友であった『K』と、文学そのものをあらわす『静』とが織り成す追憶の物語のように読んでゆきました。

静(お嬢さん)というのがヒロインとしてこの物語に登場します。追憶では、このお嬢さんが素晴らしい美少女として登場しています。誰にでもそういう若き日の恋の相手はいるわけで、そのお嬢さんに恋をして、結婚がしたいと。「先生」は親友「K」と、このお嬢さんを奪い合うことになってしまうわけです。そういう話の大筋があります。今なら普通かも知れませんが、明治時代は自由恋愛というのがまだ主流では無かったですから、恋というのは今よりもっと静かで淫靡で革命的なものだったのかも知れません。この話の「先生」というのはなんというか男前なんです。かっこいい。それで「先生」と言って慕ってくる青年に少しずつものを教えてゆく。自分の経験を元に、こういう失敗はしないように、という気持ちで、「先生」は「私」に心を開いてゆく。




現代でも、「先生」と言えるような尊敬されている人が、子にものを教えてゆくように、なにかを伝えることがありますよね。私たちは尊敬できる人からそういう話しを聞いておきたいと思う。戦争の実際を経験していない人にその苦しみを伝える人がいる。連合赤軍の時代を知らない若い人に、あの時は、こういうように失敗が積み重ねられていったんだ、と大人が告げている。阪神淡路大震災を知らない時代の人へ、あの時はこうだったんだ、こういうことが大切だったんだ、と告げたいと思う。そういうように、漱石は若い人へ向けて、ある挫折についてを教えようとする。

それで「先生」はこう言うわけです。

「君は恋をした事がありますか」 
 私はないと答えた。
 「恋をしたくはありませんか」 
  私は答えなかった。
 「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。
 しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
  私は急に驚かされた。




「こころ」の登場人物である「K」のモデルは、一般に石川 啄木か幸徳 秋水であろうと言われています。ぼくはきっと正岡子規が「K」で、正岡子規と「文学」という恋人「静」を奪い合ったんだろうなあと思い込んでいました。今でもそう思ってるんですが。はじめは正岡子規が文学に愛された。正岡子規は「ほととぎす」を創刊して文学と親密になり、俳人として世に名を馳せてゆく。その時夏目漱石はただ英文学を研究しているだけだった。正岡子規が長い闘病生活の末亡くなり、漱石はそれで俺は小説を書こう、と思い立つ。漱石は正岡子規に導かれるように「ほととぎす」に「吾輩は猫である」という小説を発表し、文学者になっていった。漱石はいつのまにか、ずっと背中を追っていたはずの親友を追い越して歴史的文学という世界に進んでいた。ただ、ちゃんと調べてゆくと、Kの実家は寺で、石川 啄木も実家が寺なんだし、どっちかといえばやはり啄木がモデルのようです。




漱石は自身の手記で『坊っちゃん』の登場人物のモデルは誰なんだい、と聞かれて「モデルは居ません。想像で作りあげた人なんです」と説明しています。小説は架空の物語ですし、特に漱石は私小説やノンフィクションの方法のようには人物を登場させないし、架空の要素が多いほど物語としてより優れた設計であると考えていた作家なので、まったくモデルが居ないまま箱庭を作っていったというのが正解のようですが、それでもやっぱり作者の実体験を完全に離れて書けないんじゃないかと思います。明治時代に英国文学を研究していた男が紫式部のような物語を書く、というような飛躍はとうていできないわけで、どこかが実体験に基づいて居るんじゃないかと思えるわけです。物語を読むと同時に、作者の静かな告白も一緒に読んでゆきたい、と思う僕にとって夏目漱石は現実の多様な逸話にあふれていて、汲んでも汲んでも尽きることのない一つの水脈のように大きな存在です。




漱石は自身の手記で、小説には「触れる」小説と「触れない」小説というのがある、と述べています。触れる小説というのは、言ってみれば泣ける小説です。【お涙頂戴=優れた物語】では無い、ってことは誰でも実感したことがあると思います。ほんとに気持ち悪くなっちゃう恐怖小説なんて誰も読みたくないですし、触れる小説というのはやっぱり限界があるんだと。
それで英国文学を研究し尽くして、独自の日本文学を創りあげた漱石は、平易に淡々と客観的な視座に立って書いてゆく、触れない小説の魅力を説いています。





http://akarinohon.com/center/kokoro.html (ページ数 約700枚)


銀河鉄道の夜 宮沢賢治

  • 2011.08.19 Friday
  • 21:52


今日は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を公開します。


明かりの本では「再び読む」ことを大切にしています。
「再び良書に巡りあう」をコンセプトに本の公開を行っています。
何度でも読んでゆける本を、何度でも紹介してゆきたいと思います。




http://akarinohon.com/center/gingatetsudono_yoru.html


夢十夜 夏目漱石

  • 2011.08.07 Sunday
  • 02:11


今日は夏目漱石の【夢十夜】を紹介します。


夏目漱石は、学生の頃に親友になった正岡子規(や高浜虚子など)の導きによって文学者になっていったようです。それは一番はじめに書いた「吾輩は猫である」という小説の序文に記されています。漱石の親友だった子規は、いわゆる知的なガキ大将で親分肌でした。子規は主戦主義だったし戦争がはじまると志願して従軍記者になって、戦地に赴きそこで体を完全に壊してしまった。漱石はそれとずいぶん違っていて兵役から逃れるために北海道とかに籍を置き、とにかく「お上」というやつがやることが幼い頃から全く信用できなかったようで、逃げに逃げまくっています。可能な限り逃げ続けたんじゃないかと思えます。逃げると言うことは、その問題の本質がよく判っていると言うことですよ。よく判っていない時ほど逃げずに正面から突っ込んでゆきます。それで漱石は戦争から逃げますし、親友である正岡子規の病と死からも逃げに逃げて一万数千キロを海や陸を渡り続けてイギリスにやってきます。英語はわかるんだけど、当時東洋人差別の激しかった英国文化は判りようがない。それで「事情が全く違うんだから、よそさまのことを中心にして考えてはいられない」という結論を出して、自己を中心にして社会とまっとうに関わろうと決めるんです。自己本位です。




「自己中心的」というのは現代ではよく否定的に言われますが、それは己を中心にして人と人との関係性を意識的に悪化させちゃおうという思考なんですが、漱石は自分が発案者になって社会との関わりの仕組みを作っていってやろうというタイプです。




漱石はイギリスで自室に籠もりきりになって、文部省がやらせようとした「英語けんきゅう留学」とはぜんぜんちがうことをやってるんです。授業にも行かずに自室で文学を独学したりしていた。あと、漱石はイギリスの切手とか絵本とか小物が好きだったようです。当時の日本ではほとんど無かった自転車にのったりして、「自転車すげえー」とか一人で言ってた。自己本位です。




それでそのイギリス留学中に、漱石は病床の子規から手紙を受けとるんです。「僕はもー駄目になってしまった」と記された、正岡子規からの最期の手紙です。その手紙を受けとって、どうやって伝えたいことが書けるかというと書けません。書けない。書けないので、いっけんなんでもないような軽い手紙を書いて送った。そうしてあとからそのことについて考えていった。僕の解釈では、夏目漱石はここを原点にして誕生しているように思えます。コミュニケーション不能な事態をなんとかして表現しうる方法というのを、独自の文学観を用いて創っていった。正岡子規の死や仲間や親類の死を見送れなかった漱石の心情が、物語に昇華されていってるんじゃないかと。




この夢十夜は、初期のひょうげの物語から、中期後期の生老病死を見つめる文学へと連なってゆく、ちょうどその境目の魅力があると思います。





http://akarinohon.com/basic/yume_juya.html (総ベージ数約80枚)

阿Q正伝 魯迅

  • 2011.07.30 Saturday
  • 16:20

今日は魯迅の阿Q正伝を紹介します。これは中国の作家である魯迅が1921年に書いた代表作です。まずはあらすじを紹介してみます。あらすじを読む前に作品を読みたいかたは、作品へのリンクURLから本文をお読みください。

魯迅 阿Q正伝




それでは、阿Q正伝のあらすじをwikipediaなどから引用してみます。

阿Q正伝は,日雇農夫阿Qの性格とその生涯をユーモラスに描く中に,中国民衆の精神のゆがみ,彼らを悲劇に追いやるもの,辛亥(しんがい)革命の実体等への批判を盛りこんだもの。中国現代文学の代表作の一つ。
(百科事典マイペディア)

時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中国のある小さな村に、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする本名すらはっきりしない日雇いの阿Qという男がいた。彼は金も家もなく、女性にも縁がなく、字も読めず、容姿も不細工という村では最下層の存在で、村の閑人たちから馬鹿にされている立場であった。だが阿Qは非常にプライドが高く、「精神勝利法」と呼ばれる独自の思考法を持っており、どんなに罵られようが、日雇い仲間と喧嘩して負けようが、結果を都合の良いように取り替え心の中では自分の勝利としていた。ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買い、村民からまったく相手にされなくなる。彼は食うに困り、盗みを働き、村から逃亡同然の生活を続ける中で、革命党が近くの町にやってきた事を耳にし「革命」に便乗して意味もわからぬまま騒ぐが、逆に革命派の趙家略奪に加担したと無実の疑いをかけられて逮捕され、弁明すらできず哀れ銃殺されてしまう。
(wikipedia)




僕は文学がなぜ必要とされるのかが判らないと思うことがよくあります。楽しんで読む小説は、書きたいから書いて読みたいから読むわけで音楽のように人の心を潤すわけでその存在意義は疑いようがないのですが、難解な文学の存在意義がどうしてもよく判らない、と思うのです。たとえばなにか問題があって、手掛かりが欲しい、ものを考えたい、という場合には古典的な思想書を読むべきだと思います。どうしても自らものを考えてしまう人にとって古典的な思想書は、誤ったものの考えを丁寧に解きほぐし、日常を取り戻すための大切な梯子となります。




人によっては読む必要のないものですが、老荘思想を学んだりとか、般若心経や歎異抄を学ぶ、あるいはカントやソクラテスなどの古典的書物に学ぶことによって己の抱えている独自の問題を乗り越える手掛かりが見つかります。現代では、判りやすく平易な現代語訳でこれらの思想を学んでゆくための良書が数多く出版されていますから、異様な知性が無くとも、誰でも古典思想を学ぶことができます。「思想が人を殺す」というのはよく言われることです。ファシズムという暴力と差別を肯定する思想が多くの市民を殺し、共産主義という思想が別の主義を持つ市民を粛正し、資本主義という思想が利権や石油を巡って内戦や戦争や大事故を引き起こす。思想がきっかけとなって、人が死ぬことは偽りがたい事実です。




古典的書物がどうして必要とされているかというと、そういった「思想そのもの」がもたらす恐るべき不和と殺人に引きずり込まれないようになるため、もっとも長生きした思想をあらかじめ学んでおき、新しい思想に対応できるようになるからだと思います。長生きした書物に親しんでいれば、危機を乗り越える力がつきます。十九歳で連続銃殺事件を起こした永山則夫という青年が、死刑囚となりもう死ぬよりほか道はないという状況で、その危機を乗り越えるきっかけとなったのは、古典的な思想書(カントやマルクスなど)と詩でした。もし仮に、永山則夫に書物もノートも手渡されなかったら、彼は獄中で狂い死にしているか無感覚になったまま死の日を迎えただけであることは想像にかたくない。文学が果たす役割というものは、僕が理解した範囲では、「思想」では満たされなかった孤独にどこまでも付きそおうとする創作者のまなざしと声とが、一般的な市民とはかけ離れてしまったある人物にただ同伴し、その孤独の意義を知らせていることにあるのだと思います。




ただ残酷なだけにすぎない話と、歴史に残る文学との違いは、過酷な状況に置かれた人物にたいするまなざしが、不断でありつづけるほど真摯であるかによるのだと思います。魯迅にそういった真摯なまなざしがあったことは彼がこの小説を書いたきっかけを辿ってみても明らかです。魯迅は異文化である日本で同胞の死を描写した幻像をまのあたりにし、その死に対する周囲の無感覚に強い衝撃を受けて物語を紡ぎはじめます。トラウマの神話的表現であるとも言われるブリューゲルの描いた「落ちるイカロスのいる風景」という絵画をご存じでしょうか。




この絵画は、とても不思議な構図の絵で、ギリシャ神話のイカロスを描いているのですが、その中心にあるのは牧歌的な生活の風景です。翼で自由に空を羽ばたいていたイカロス。父親の警告を忘れ太陽に近づきすぎて翼が溶け、海に落ちたイカロスの絵であるのに、そのイカロスの姿が見あたらない。しかし、ぜんたいを注意深く見つめていると大きな帆船のすぐ下あたりに、溺れ苦しんでいるイカロスが確かにいるのです。私たちはイカロスを知らずにいるので、普段通りに暮らしています。イカロスのショックは、この日常と異常事態との大きな落差にあります。私たちは魯迅の物語を通して過酷な挫折のほんの一部分を共感し、その落差を少しずつ緩和しようと試みます。文学のもたらす価値は、異常事態から平生の暮らしへの架け橋として機能しうるからこそ生じているのだと思えてなりません。





http://akarinohon.com/basic/akyuseiden.html (ページ数 約140枚)


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『明かりの本』ではamazonで買える本も紹介しています。どうぞ名作をお買い求めください。
宮沢賢治の本棚
夏目漱石の本棚
老子の本棚
ドストエフスキーの本棚

明かりの本は新アドレスに移転しました。
http://center.akarinohon.com/

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