源氏物語 桐壺 紫式部 與謝野晶子訳

  • 2011.11.27 Sunday
  • 00:07


今日は与謝野晶子が翻訳した紫式部の『源氏物語』桐壺を公開します。

源氏物語は世界最古の恋愛長編小説です。明かりの本では、これから五十数帖をひとつひとつ順番に、すべて無料公開してゆこうかと思っています。


これは与謝野晶子が現代語に翻訳したものですので、物語として読みやすいものになっています。1帖は約20ページほどの掌編小説になっていますから、ちょうどよい読みやすさです。


源氏物語というのはどういうものかというと、光源氏という皇子が、数々の美女と契るというお話しです。光源氏は絶世の美男子で、不倫であるとか禁断の恋を数多く重ねてゆきます。光源氏に求愛されてこれを断る人はほとんど1人も居ない、というくらいの美男子であるのです。かなり性的な物語である、というように解釈できるのですが、重要なのは生老病死についてがみごとに表現されているという部分で、与謝野晶子が翻訳した「源氏物語」はこの情感を伝えることに重点が置かれています。千年経っても古びない物語です。どうぞお楽しみください。







こちらのリンクから、与謝野晶子訳の源氏物語(第一帖)を全文お読みいただけます。
http://akarinohon.com/center/01kiritsubo.html (約20頁 / ロード時間約30秒)


フランダースの犬 マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー

  • 2011.11.26 Saturday
  • 00:04


今日はマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメーの《フランダースの犬》を紹介します。
これはきっと、アニメで知っている人が多いと思うのです。
興味をお持ちであれば、菊池寛が翻訳したこの児童文学を読んでみてください。
80ページほどの中編小説です。

マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメーという名前を聞いたことがないという人は多いと思いますが、これはOuida(ウィーダ)というイギリスの作家の本名です。ウィーダはイギリス人の母とフランス人の父を持ち、イタリアへの移住に憧れ、晩年はイタリアで暮らした作家です。


初期のウィーダは、『フランダースの犬』のように厳しい現実を書くわけではなく、ロマンチックで自由奔放な作風だったそうです。





http://akarinohon.com/basic/flanders.html (約80頁 / ロード時間約30秒)


仙人 芥川龍之介

  • 2011.11.25 Friday
  • 17:00


今日は芥川龍之介の『仙人』を紹介します。
これはなんとも不思議なお話しです。
仙人になりたい、という少年が主人公の物語です。


「仙人」というのは、道教の教えの中に出てくる、山に住み空を飛ぶ不老不死の者のことです。仙人とは、天宮に赴き、透明人間のような存在にもなれ、朝日や夕日を食べ永遠に生きることが出来る、という設定になっています。西洋で言えば、魔法使いのような存在です。


道教は、老子の思想とは無関係に生じた中国の宗教ですが、その教えはかなり老子を参考にしている宗教です。老子と道教が異なっているところは、老子は「不自然な活動をするな」と述べ「無為自然」を説いているのに対して、道教は民衆に対して宗教による救済を積極的に試みているところがまったく違います。


それから、老子は「長生き」にこだわらないですし「死」にこだわらないということを説いていますが、道教では不老不死になる方法がある、という幻想を説いています。


道教は老子の思想とはかなり違う活動をしているんですが、その中心に老子があるのがなかなか奇妙です。老子からすれば道教は老子の思想を受けついでいない、と言うはずです。しかし、道教にとって老子は神様のような存在で、教祖なのです。


道教は、現代ではあまりメジャーではない宗教ですが、かつては仏教や儒教に匹敵するほど大きな宗教団体でした。道教はもともと、中国古代の母系氏族社会で自然発生した原始宗教で、それに老荘思想や儒教や仏教などを取り入れて広まっていった宗教です。


芥川龍之介は、この道教が発祥の「仙人」にかなりこだわっているようで、「杜子春」という話しも、仙人になるための修行が話の中心になっています。


この「仙人」という短い話は、オチがどーなるんだろう、という期待を抱かせるのが上手いなあ、と思います。
この少年が、僕はどうも好きなんですが。
ほんとうに仙人になりたい、という少年。




http://akarinohon.com/center/sennin2.html (約20頁 / ロード時間約30秒)


種田山頭火句集 草木塔 二 其中一人

  • 2011.11.24 Thursday
  • 14:57


今日は種田山頭火句集『草木塔』その二・其中一人を紹介します。
山頭火は波瀾万丈な人生を歩んでいますが、1923年に関東大震災にあって、それから孤独な中年男であった山頭火は熊本にひきこし、自暴自棄になって市電を止めたら、怒られて禅寺に放り込まれます。


それが縁で坊さんになって托鉢し、自由律俳句を幾つも書くようになります。
人間万事塞翁が馬、というのを地で行くような浮き沈みのある人生です。


短歌 萩原朔太郎

  • 2011.11.23 Wednesday
  • 13:55


今日は萩原朔太郎の短歌を紹介します。萩原朔太郎は、恵まれた幼少時代を過ごし、はじめ短歌を作り、のちに詩人となって「日本近代詩の父」と呼ばれるほど有名な詩人となりました。豊かな趣味と恋多き人生で、詩人になるために生まれたような人物です。


萩原朔太郎は、当時フランスに行きたくて仕方なかった。今はパッケージ旅行でフランスにいけたりする時代ですが、当時は知識人しか行けなかった遠い国です。現代で言えば宇宙に行くくらいたいへんな渡航だった。それで、そのフランスに行きたい、という情熱を萩原朔太郎は詩で表現して当時多くの共感を呼びました。




http://akarinohon.com/center/hagiwara_tanka.html (約40頁 / ロード時間約30秒)

庭の追憶 寺田寅彦

  • 2011.11.22 Tuesday
  • 15:18


今日は寺田寅彦の『庭の追憶』を紹介します。
紅葉の雰囲気が漂う随筆を探してみて、これに突き当たりました。
これはなんだか不思議な瞬間をとらえています。


ぼくは、昔住んでいた町を通り過ぎるときにみょうに不思議な気分になります。
ここは「自宅の近くだ」という気分と「ここは自宅から遠い」という気分がなんだかまぜこぜになった気分に包まれるのです。なんか「あれっ?」という瞬間って人によっていろいろありますよね。何に役立つのかは判りませんが、なにか創作している人にはそういう「あれっ」という瞬間が役だったりするんでしょうか。


他に「あれっ?」という瞬間を紹介すると、僕はさいきん大学生のちょっとした日記をなんとなく読んでいたりするときに、この「あれっ?」という感覚に突き当たります。ちょうど僕も大学時代にまったく同じことを考えていたなあ、ということを感じるんです。でも10年以上たって今はそれと異なる考え方になったし、たぶんこの学生さんも5年くらいたつとかなり違う発想を持つはずだ、というようなことを思うときに「あれっ?」と思うんです。


どういうように「あれっ?」と思うかというと、僕が誰かを見つめているときに、僕も誰かに同じように見られているように思う、という奇妙な感覚です。


たとえば学生時代ってよっぽど面白いことをしている人でもないかぎり、学生のその先がどんな日常になるか、あんまり想像しませんよね。ちょうど小学生が大学生の日常を想像しないのと同じで。でもそれは実際に5年後になると判ってくるし、今知る必要なんて無い。小学生時代に「大学3回生に進級したら単位はどうしようかな」ということを悩んでいても、それはまったくちんぷんかんぷんな悩みなわけで、つまりかなり先のことは「なるようになる」とか「うまくゆくはずだ」というふうに適切な道のりを想定しておいて、今することを改善してゆくしかない。


そういうことを思っているときに、「あれっ?」と思うんです。つまり、僕が行き詰まっているように感じている「僕の日常」の先を、ある程度正確に予測できる人がたぶんいるはずだ、という予感が、なんだか不思議な気分で想像できるのです。


僕は僕の日常をどう変化させてゆくか、ちょっといま具体的によく判らないのですが、経験豊富な人にとっては、僕の未来はそれなりに見えているんじゃないのか、と想像するときに「あれっ?」と思うのです。僕自身には見えないのに、だいたい予測できる人が居るはずだということだけは想像できてしまう。それは奇妙だな、という感覚です。自分の視野が、自分がゆけるはずの距離よりも遠くに行ってしまっている瞬間があるのでした。


もう少し、具体的にこの「あれっ?」という感覚を説明してみると、さいきん聞いた仏教の法話のなかに、こういう不思議な話がありました。


男と従者は長旅をしていた。
男らは川沿いをずっと歩いて、川上にある村にたどり着かねばならない。
しかし、今歩いている道は、だんだんと崖が険しくなってきて、はるか彼方には岩壁が聳えている。このままでは旅を続けられない。
男らは対岸を見つめた。向こう岸にはなだらかな草原が広がっている。
男らはより一層けわしくなる此方側の道をあきらめねばならない時がついにやってきたことを悟った。しかし川は深く流れはけわしい。男は従者に命じ、木木と葉を寄せ集めさせて、がんじょうなイカダを組ませた。このイカダのおかげで、男らはぶじに川を渡り終えることが出来た。ここから先はなだらかな草原を越えてゆくだけでよい。しかし男は、川を渡り終えたことに歓喜し、このイカダにいたく感謝するあまり、イカダを背にかついで草原を歩きはじめようとしてしまった。
そこで従者はなにを言うべきか。
「そのイカダはもはや不要です」
このように告げるべきである。
危機を乗り越えたのち、もはや使わなくなった道具とはお別れをして、共に新たな道を歩まねばならない。


こんな話でした。それで僕は「あれっ?」というのから「ああなるほど」という感覚にいたりました。プラトンの本にもこれに似た話が書いてあったし、ウィトゲンシュタインという哲学者も似たことを書いていて、あれも親切心でそう告げたんだろうなあと。


つまり、ずいぶんな長旅をした人は、そのあとから歩いてくる人へ向けて、なにかを書き残すことがこれまでも良くあって、私にとってはまるで体験したことのない謎であっても、人によってはすでに来た道であったのだ、と納得したのでした。

 

http://akarinohon.com/center/niwano_tsuioku.html (約20頁 / ロード時間約30秒)


日光の紅葉 正岡子規

  • 2011.11.21 Monday
  • 11:57
 

今日は正岡子規の『日光の紅葉』を紹介します。
紅葉の季節なので、ちょっといくつか秋らしい俳句や随筆を紹介してゆきたいと思います。
子規はいろいろな知識人たちと親好を深め、豊かな人脈を持っていた俳人です。


正岡子規は森 鴎外、中村 不折、河東 銓、久松定謨、秋山好古、秋山真之、夏目 漱石、尾崎 紅葉、高浜 虚子、伊藤左千夫、長塚節、岡麓など、数多くの人々と付き合っています。


子規が亡くなったのちも、子規の活動拠点であった俳句雑誌「ほととぎす」が不滅であったのは、ひとえにこの数々の出会いによるものだったようです。はじめはそんなに発行部数の多い雑誌ではなかったのですが、子規の弟子であった高浜虚子がその雑誌を引き継ぎ、漱石の処女作「吾輩は猫である」が掲載されてから、東京で飛ぶように売れるようになった。


子規は万葉集を強く推薦しています。そして形式にとらわれて内容を失ったものを否定し、なんというか人づきあいにおいても創作においても、多様性ということをかなり重視していたように思います。子規は読めもしないドイツ語の哲学書を読み込もうと頑張ったり、漢詩にそうとう詳しくて漢詩の創作とかもけっこう熱心にやったそうです。多才ですね。






 

若草物語 ルイザ・メイ・オルコット

  • 2011.11.20 Sunday
  • 08:00


今日はルイザ・メイ・オルコットの「若草物語」を紹介します。19世紀後半の南北戦争時代のアメリカを舞台に、家族の絆を描いた物語です。原題のLittle Womenというのは、父親が娘たちのことを、自立した女性として呼んでいた名前です。



これは実話をもとにした物語なのだそうです。名作映画のコメンタリーとかを見ていても、実話というのをいかに誠実に物語化するのか、実話をいかに上手く翻訳してゆくか、というのがどうもだいじみたいです。



この「若草物語」は、姉妹のそれぞれの独特な性格が魅力でそれぞれ、虚栄心とか、怒りっぽいとか、なんでもかんでも恥ずかしがるとか、そういう欠点を持っています。ジョーという女が、作者ルイザ・メイ・オルコットの分身のような人格として描かれているそうです。「自分の心の中の敵」と向かい合い、それを克服しながら成長してゆくという古き良き物語です。






http://akarinohon.com/basic/wakakusa_monogatari.html (約100頁)


種田山頭火句集 草木塔 一 鉢の子

  • 2011.11.19 Saturday
  • 15:00


今日は種田山頭火句集『草木塔』その一・鉢の子を紹介します。
五回ほどに分けて、これから山頭火の『草木塔』を紹介してゆこうと思います。


種田山頭火は幼い頃に母親が亡くなっていて、大人になってから家業の造り酒屋を潰してしまい、放浪中に寺男になることを勧められ、やがて遊行僧となった人物です。
種田山頭火は、一人旅をし尽くし、俳句を多数残しました。芭蕉のように日本中を渡り歩いた。


自由律俳句という、一行詩のような短い俳句を幾つも残しています。
こんなに短い言葉の積み重ねなのに、本人の息遣いが伝わってくると言うのが不思議です。





ランボオ詩集4

  • 2011.11.18 Friday
  • 18:58


今日はランボオ詩集4を紹介します。これは詩人の中原中也が翻訳したものです。
ランボオの詩は、小林 秀雄が翻訳したものが有名です。
小林 秀雄の翻訳したランボオを愛読する人にとっては、他の翻訳はどうもしっくりと来ないそうなのです。中原中也訳でランボオを知った人も、それはそれで別の翻訳だとなんだか違和感があるんじゃないでしょうか。




ランボオとは関係ありませんが、英語教師であった夏目 漱石が翻訳について教えるとき、生徒に「“I love you.”をどう訳す?」と質問したことがあります。それで生徒が「我はなんじを愛します」というような直訳をした。すると、漱石は生徒をキッとにらみつけて「日本男児がそんなことは言わん」と断言しました。「今夜は月がきれいですね」こう翻訳するのが正しいのだ、そうです。







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