今日は夏目漱石の三四郎を公開します。
前回紹介したのですが、どんな本なのかをまったく記していなかったので、改めて紹介し直してみようと思います。
これは夏目漱石の、かなり代表的な小説です。漱石の教養小説の中ではいちばん念入りに書かれていて、読みものとしてもっとも面白い本だと思います。今、学生さんをやっている人には、なによりも一番お薦めできる小説だと思います。ちょうどそういう状況に当てはまる、というかたは、ぜひ読んでみてください。おそらく漱石の文章は、どのような講義よりも魅力的な内容であると思います。『明かりの本』でも全文読めますし、本屋で買ってみるのも良いと思いますし、図書館で借りて読んでみるという方法もありますよ。とにかく今学生をやっていて、なにか教養というもんに触れてみたいという願望がある方はぜひともこれを読んでみてください。これはあなたのことが書いてある小説です。漱石が、未来の学生さんのために書いた、まさにあなたのための小説です。
漱石をこれから読み込んでみたいというのなら、この『三四郎』を読むのが一番良いと思います。なんといっても、これは単純に面白いです。『学生時代に悩んでいる』ということそのものが小説の中心になっています。学生時代は、あと何年か経てば社会に繋がってゆくわけですが、ほんとにどのように社会に出られるのか判らない、という気持ちで居る学生さんが何割かいると思います。そういう方にとってバイブルと言っていいような内容になっています。
明治時代の学生というのは、将来どんな仕事が出来るのかさっぱり判らない時代だったんですね。学問を身につけても、社会からの需要がまだ無い時代ですから。学んでいるのに社会と繋がる方法が無い、ということが一つの大きな問題だったわけです。そういう時代の学生の悩みがみごとに描かれています。ですから2011年という今、この『三四郎』というのはいよいよ本質的に「ためになる小説」だと言えると思います。
この物語は夏目漱石が、自身の体験をふまえてかなり嘘偽りなく、学問をやる若者と社会との関係において起きる問題を克明にとらえていった小説です。大げさなことを言うようですが、たとえば学生をやっていてですね、「どうもちがうんだ」と思っている人がですよ。漱石の文学世界に深入りしてゆくのか、それとも別の組織に深入りしてゆくのかで未来が大きく異なってくると思うのです。
このままてきとうにやってゆけば問題ないだろうという生まれつき幸せな人はそもそも教養を身につける必然性があまりないとは思います。しかしそうでなしに何らかの問題を抱えているので、自分はしっかりと教養を身につけて社会で独り立ちしてゆく力をつけねばならないと考えている人は、この漱石の三四郎が大きな意味を持ってくると思います。ある程度知性のある方は、例えばなにか犯罪に手を染めてしまった場合などに引き起こす問題の度合いが強くなってしまいますから、そういう賢い人は師となる先生が必要である、というようなことを過去の偉人が述べていましたが、偶然身近に尊敬している先生が居ないという方は、ぜひ夏目漱石に私淑してみてください。
この三四郎という物語には、
迷子(ストレイシープ)というのが一つのキーワードになっています。この言葉を注意深く見詰めてください。ストレイシープというのは
新約聖書ルカによる福音書・第15章に登場する『いなくなった羊を見つけた喜び』のことなのですが、漱石にとってのストレイシープはなにを意味するのか、物語を読み進めながら探ってみてください。第五章と最終章で、三四郎と美禰子の会話で登場します。漱石はおそらく、美禰子や三四郎のようにどこかこの先の未来へとうまく繋がってゆけない人のことをこう呼んだように思います。漱石はストレイシープとなりかねない人に語りかけているようです。
読んでみれば判るのですが、これが江戸時代のちょっとあとに書かれたものとはとても思えないような現代性があります。ちょっとあらすじを紹介しておきます。おおまかなあらすじを知っておいたほうが読み進めやすい、というかたは読んでみてください。本文を読む前にあらすじを知りたくないというかたは、
こちらのリンクから本文をお読みください。
主人公である三四郎は一人で上京するために汽車に乗っています。そこで異性にであう。なかなか好感の持てる九州出身の人物です。その異性から話しかけられて、三四郎は戸惑います。そのすてきな異性が「一人旅で心細いので、一緒に宿屋に泊まりませんか?」と話しかけてくる。主人公は純情なものですから、断ることも出来ず、しかし異性を口説いて恋仲になるような勇気も持っていない。「ああ自分に当てはまるな」と思ったあなたは、ぜひ本文を読んでみてください。それから三四郎は都会の立派な学校で学び始めます。生まれて初めての体験ですから、その学問というものにものすごいあこがれがあるわけです。学校に入り立ての頃のことを思い出してみてください。たしかに自分に当てはまると思うのではないでしょうか。
三四郎は田舎から東京へ出てきます。そして都会の大きさに喜びと不安を感じます。充実した日常なんですが、どこか昔よりもいっそうさびしさや孤独を感じる。その不安をふりはらうために、大学で熱心に学ぶのですが、「なんだかどうもちがう」と感じる。学問に身が入らない。どうにも物足りない。
そうして佐々木という青年が、三四郎におもしろい指摘をするわけです。
「君はずいぶんまじめに講義を聞いているようだな」
三四郎は答えます。「うん、一週間に約四十時間ほどになる。しかしこれが物足りないんだ」
佐々木は言います。
「馬鹿々々。下宿屋のまずい飯を一日十回食ったら物足りるようになるか考えてみろ」
大学の授業が、まるで「まずい飯」のようなもんだとたとえる、生意気な生徒さんなわけです。
それで佐々木は、三四郎に都会の遊び方を教えるんです。
三四郎を満足させた佐々木は
「これから先は図書館でなくっちゃ物足りない」
と告げる。
三四郎は、それで授業を半分に減らして空いた時間に図書館へ行くことにします。
漱石は物語の中で「明治の思想は西洋の歴史に現れた三〇〇年の活動を四十年で繰り返している」と記します。漱石は自分が今置かれている立場を客観視させてくれます。初期や中期の漱石は物語に教養を含めてゆくと言うことにかなり熱心であったように思います。実際、漱石には多くの弟子たちがいて後進を育てています。
三四郎の登場人物には、どこか抜けているのに鋭い指摘をする人々が多く登場します。この物語は、なかなか滋養に満ちたことを言う人たちが多くて面白いんですよ。
広田先生というのがいちばんするどい指摘をする人かもしれません。
それから、漱石の話は哲学的な考察が鮮やかに書き記されているのも特徴です。
夜にですよ。病に罹った妹のために急に家を空けることになった知人の家に、たった一人で取り残される三四郎。それが真夜中になって、見知らぬ竹藪の奥底から、怖ろしいうめき声を聞くんです。それから闇夜の中を這うように歩いて、その声がしたところへ向かう。続きは本文を読んでいただきたいのですが、その夜の恐ろしさと、まったく同じことがらを、知人が「昼に」体験したがるんですね。まったく同じ事件であるのに、暗闇の中に一人立っている人のみたものと、昼にその話しを聞いた男とで、印象がまったく異なる。